名前を呼べば、きっと振り向いてくれる。

 いつから『そう』だったのか。あの日、出会った時からだと思う。
 私は『婚約者』の名前を呼んだことがない。いや、違う。面と向かって、が付く。
 なぜか・・・それは恐れ多いから。あの方は、私たちの『主』となる方だ。父は何度も私にそう言って聞かせた。
 彼が見つけた妖精が、私の髪に留まったから。ただそれだけの理由で『婚約者』になった。私にとっては些細なことでも、あの方にとっては、とても大切なことだったのかもしれない。
 あまりにも今の生活に慣れてしまい、少し感覚が鈍っている。
 私がこの『ナイトレイブンカレッジ』にいることは、イレギュラーなこと。
 見識を広めるため、あの方がこの学園に入学したのは三年前。私も、あの方と同じように、将来のため、ここへ入学した。特待生として。
 男子校であるここへ、私が入学できたのは、当然あの方のおかげだ。おかげで、ジロジロと見られる始末。
 人の子の興味は移ろいやすい。そう自分に言い聞かせ、こうして平和とは言い難い学園生活を送っている。
 スマホを取り出し、時間を確認。そろそろ、あの方が寮に帰って来る。きちんとお迎えしなければ。
 ディアソムニア寮に戻り、入り口近くで待つこと数分。見慣れた姿が私の前に現れた。

 「お帰りなさいませ、若様」
 「ああ、戻ったぞ」
 「上着、お預かりします」
 「いや、いい」

 手を差し出して、上着を受け取ろうとするも、そう断られた。「それより、話がある」若様はチラリと私を見下ろし、短くそう告げる。
 若様の後をついて行く。ストライドの違いから、置いて行かれるかと思ったけれど、私の歩調に合わせ、ゆっくりと歩いてくださる。
 入ったのは、若様の部屋。談話室ではなく、自室に連れてきたということは、大切な話なのだろう。
 部屋に入ると、バルコニーへ。少し冷たい風が吹いた。
 若様のお部屋に入るのは、初めてではない。何度かお話相手として呼ばれたことがある。
 私とこの方・・・若様は婚約者同士だけれど、体の関係は、まだない。お互い、相手のことを知らなさすぎるからだ。
 そう、私とこの方は婚約者らしいことをしたことがない。触れられたことさえ。
 「あやつとはどうじゃ? 良い関係を築けておるか? お主が入学してから、あやつもずい分と機嫌が良くなったものじゃ。まあ、その一方で機嫌が悪くもなっておるがな」とはリリア様の言である。機嫌が良くなったのに、悪くもなったとは、どういうことなのだろうか?

 「学園生活はどうだ? 不足なく過ごせているか?」
 「はい。クラスメートも優しい人たちばかりで、楽しく過ごしています」
 「そうか」

 そんなことを聞くために、お部屋へ呼んだのだろうか? 何か聞かれたくない話でもあるのかと思ったけれど。
 若様が私を見つめてくる。黄みがかった緑色の瞳。見つめられていると、その魔力に捕らわれそうになる。

 「お前は不足がないかもしれんが、僕には不足がある」
 「え! そうなのですか!? 大変! すぐリリア様にご報告・・・」

 踵を返して部屋を出ていこうとすると、手首を掴まれて。そのままグイッと引っ張られた。
 驚愕に目を丸くする私の視界が、黒一色になる。背中に触れるのは、誰かの腕だろう。
 何を言っている、しっかりしろ。ここは若様のお部屋だ。若様と私以外には誰もいない。リリア様ですら、入って来ていないのに。
 つまり、ここで私を抱きしめているのは、若様ということだ。
 今まで触れようとすらしなかった私を、抱きしめているのは・・・若様ということだ。

 「あ、あの、若様?」

 一体全体、何がどうなっているのか。
 なぜ、抱きしめられている? 何が起こった?
 下手なことはできない。この方は、私の婚約者であると同時に、主でもあるのだから。

 「・・・お前は、僕の名前を知らないのか?」

 頭上から降って来る声。こんな至近距離で聞いたことのない声だ。
 いや、今はそれより尋ねられたことに答えなければ。

 「いいえ、まさか」
 「ならば、名前で呼ぶといい」

 これは『提案』ではなく、『命令』だ。私に拒否権などない。

 「・・・マレウス様」
 「“様”は、いらない」
 「いえ、これは譲れません」

 私が名前を呼べば、間髪入れずに指摘される。けれど、私も間髪入れずに返した。この方がそう言うであろうことは、予測した。
 突然「名前で呼べ」だなんて。きっと、何か『特別』が欲しかったのだろう。そして、距離を縮めたかったのだろうと思う。
 婚約者になって、何年も経つのに、いきなりこんなことを言い出すなんて。やはり、私の入学がきっかけなのだろうか?

 「まあいい。今はそれで構わない。だが、いずれは・・・」

 いずれは、なんだろう。『陛下』と呼べとでも? いえ、この方がそんなことをおっしゃるはずがない。
 ・・・呼び捨てにしろ、ということなのだろう。
 晴れて夫婦となったなら、その時は、そうしてもいいのだろうか。本人が望んでいるのだし。

 「わざわざすまない。話は以上だ」
 「はい。失礼いたします」

 若様が私に背を向ける。私は一礼し、部屋を出ようと振り返る。抱きしめられていた距離が嘘のように、遠かった。
 私の三歩が若様の一歩。それほどまでに足の長さが違う。距離を取るのも一緒だ。魔法を使うまでもない。
 ひどく、寂しく感じた。やっと触れていただけたのに、今はもういつもと同じ距離だなんて。

 「マレウス様」

 私が名前を呼ぶと、少々驚いた様子で振り返った。そんな些細なことが、うれしくてたまらない。

 「それでは、また後ほど。夕食の時に」
 「・・・ああ」

 うれしくて、勝手に口が弧を描いていた。振り返っていただくことも、今までなかった。
 私はいつも、若様・・・マレウス様に声をかけていただくのを待っていたから。
 今度こそ、部屋を出る。廊下を歩いていると、正面からリリア様が歩いてきた。

 「何かいいことでもあったか? 先ほどまで曇っておった空が、今は快晴じゃ」

 本当は知っているだろうに。だから、私は「さあ? 存じ上げません」と答える。
 「冷たいのう」と楽しそうにつぶやくリリア様。私は彼にも一礼し、自室への道を歩き出した。